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イマジン七夕コンサート ゴールデンウィーク特別企画!  連載コラム【知られざるラフマニノフ】第1回

2021-04-30 15:50:00

【はじめに】

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、作曲家、ピアニスト、指揮者として活躍したラフマニノフ。ロマンの大洪水のような作品が今なお世界中で絶大な人気を博していますが、その一方で、一部の批評家や音楽学者からは存命中から「チャイコフスキーの亜流」「時代遅れの作曲家」といった酷評を受け続けてきました。シェーンベルクやスクリャービンといった同年代の作曲家たちが調性を超えた音楽を次々に生み出す中、19世紀ロマン派の流れを汲むラフマニノフの作風を考えれば、この評価はある意味仕方のないことなのかもしれません。しかし、ラフマニノフは決してチャイコフスキーの亜流ではなく、彼もまた同時代の社会や芸術から影響を受けながら、彼にしか生み出せない世界を生み出してきました。
 この連載コラムでは、そんなラフマニノフの素顔をご紹介していけたらと思います。
 



【第1回】 6フィート半のしかめっ面



 「6フィート半のしかめっ面」。それはラフマニノフのあだ名として、しばしば紹介される言葉です。
 ラフマニノフは体躯が大きいことで有名でした。1フィートは約30cmですから、6フィート半は約195cm。実際には198㎝だったともいわれています。アメリカに入国したときプロボクサーと間違われたとか、ピアノを弾く時、足がピアノの下に収まりにくかったとか、いろいろ伝わっています。そして手も大きかったそうです。伝えられている話によると、ピアノの「ド~1オクターブ上のソ(約28㎝)」まで届いたそうです。通常は、「ド~1オクターブ上のレ(約21cm)」から「ド~1オクターブ上のミ(23.5㎝)」ぐらいです。また、指の関節が異様に柔らかかったそうです。それが、史上最高のヴィルトゥオーゾ・ピアニストの一人として活躍する大きな武器になったようです。
 それでは「しかめっ面」についてはどうでしょうか。ラフマニノフは貴族の出身でしたが、幼い頃に家が没落し、一家離散の憂き目にあいました。そういう体験も影響したのか、非常に内向的で、真面目で神経質な、口数の少ない人だったようで、周囲からは気難しく不機嫌に見えていたようです。さらにその陰には、病気の存在もありました。若い頃から常に激しい頭痛や体の痛みを抱えていたそうです。一説によれば、「マルファン症候群」もしくは「先端巨大症」という病気だったのではないかと言われています。その病気が巨大な体躯や大きな手を作ったわけですから、皮肉なものです。
 そんなラフマニノフにも、義に厚かったという逸話が残っています。彼は1917年の革命の後にロシアを出国し、生涯祖国に戻ることはありませんでしたが、ピアニストとして大成功した後は、経済的に困窮している祖国の芸術家や芸術団体への支援を惜しまず、多くの芸術家たちが助けられたということです。
 
【おまけ】こちらにラフマニノフの動画が掲載されています。笑顔のラフマニノフです。

 ↑ ピアノが小さく見えますね。長い足が窮屈そうです


【第2回】 軍人になることを義務付けられた家系。音楽の道へ!

 
 ラフマニノフは、1873年にロシア北西部のノブゴロドで生まれました。モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ線上の、サンクトペテルブルク寄りに位置します。第1回で述べたように、貴族だったラフマニノフ家は没落し、一家は離散しました。それはラフマニノフが9歳の時でした。
没落は彼の運命を大きく変えましたが、音楽家ラフマニノフが誕生するためには必要なことだったのかもしれません。ラフマニノフ家の古くからのしきたりで、男児は貴族幼年学校で学び、軍役に就つかなくてはなりませんでした。兄はすでに貴族幼年学校で学んでいましたが、莫大な学費がかかる貴族幼年学校に通うことができなくなり、陸軍幼年学校に転校します。一方ラフマニノフは5歳の時から母親の手ほどきでピアノを学び、たぐいまれな才能を見せていました。そんなこともあって、彼はペテルブルク音楽院の初等科に入学します。もしもラフマニノフ家が没落していなければ、彼も軍人への道を歩んだ可能性が高かったわけですから、人生は何が災いし、何が幸いするかわかりません。
 音楽院に進んだラフマニノフですが、教師はあまり熱心に指導してくれませんでした。そこで彼はすっかり怠け癖がついてしまい、しょっちゅうレッスンをさぼっては、スケート場に出かけたり、一日の大半を川で泳いだり、ボートを漕いだり、ふざけたりして過ごしていたそうです。そして12歳の時には、とうとう落第してしまいました。そこで慌てた母親は、親戚のピアニスト、アレクサンドル・ジロティに相談。ラフマニノフの才能を見抜いたジロティの勧めで、モスクワ音楽院に転校することになりました。
 モスクワ音楽院では生活が一変します。ピアノ教師として名高いニコライ・ズヴェーレフに師事し、内弟子としてズヴェーレフ家に住むことになりました。そこで彼を待っていたのは、24時間365日、緊張感に満ちた音楽漬けの厳しい生活でした。そして彼の音楽の才能はぐんぐんと成長していったのでした。


12歳頃のラフマニノフ

【第3回】同級生はスクリャービン

 
 モスクワ音楽院の同級生には、作曲家アレクサンドル・スクリャービンがいました。二人の出会いは、ラフマニノフが内弟子として師事していたピアノ教師ズヴェーレフの家でした。ラフマニノフより1歳年上のスクリャービンは当時モスクワ軍学校の生徒でした。やがて二人はモスクワ音楽院に入学、同級生となります。大柄なラフマニノフとは対照的に小柄なスクリャービン。二人とも将来を有望視されていましたが、真面目なラフマニノフと、天才肌でルーズで気まぐれなスクリャービンは、異なる方向の道を歩みました。作曲部門とピアノ部門の両方で金賞を受賞したラフマニノフは「正当なロシア音楽を受け継ぐ作曲家」としての道を歩みます。一方、ピアノ部門でラフマニノフに次いで2位の金賞、しかし作曲部門は担当教官のアレンスキーと揉めて評価無しとされたスクリャービンはニーチェ哲学や神智学に傾倒し、独自の美学をもった前衛作曲家として国際的に評価を高めていきました。
 二人は決して険悪な関係ではありませんでしたが、周囲によって分断されていきます。ラフマニノフを支持する派とスクリャービンを支持する派が互いに反目しあったためです。1907年には高名な音楽プロデューサーのディアギレフがパリのオペラ座で「ロシア・シーズン」という公演を制作し、ロシア中の音楽家が参加、そこに二人も参加しましたが、ちょっとしたことで言い争いになったそうです。スクリャービンが喧嘩をしかけたようだったという話が残っています。また1911年12月10日には、モスクワでスクリャービンとラフマニノフのジョイント・コンサートが開催されました。前半はスクリャービンのピアノによる自作自演、後半はラフマニノフの指揮による自作自演という豪華なコンサートでしたが、聴衆は真っ二つに分かれて反発しあったそうで、二人が言葉を交わしたという記録は残っていないそうです。
 1915年、スクリャービンは43歳の若さで急死します。葬送の列、ラフマニノフは先頭で柩を担ぎながら、スクリャービンの遺族を助けようと考えます。募金を目的とした、ラフマニノフによるスクリャービン作品演奏会が次々に開催されました。しかしここでもスクリャービン派からの批判が!「ラフマニノフの演奏では、スクリャービンの独特の美学は表現できない」と盛大に非難を浴びせたそうです。作曲家プロコフィエフもその一人でした。スクリャービンに心酔する、まだ20代半ばの彼は、「ラフマニノフはスクリャービンの音楽を正確には弾くが、地上をはい回る感じがする」と酷評したそうです。そしてコンサートの後に、あろうことかラフマニノフ本人に向かって「でも、かなり良く弾いたと思いますよ」と小馬鹿にしたように伝え、ラフマニノフをむっとさせました。
 後年、プロコフィエフは語りました。「それ以後、ラフマニノフと私の関係は最後まで修復できなかった」と。


ズヴェーレフ門下の写真。後列左から3人目がラフマニノフ、前列左端がスクリャービン、
前列左から2人目はズヴェーレフ先生