コンサートイマジン
蝶々夫人 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 特集
蝶々夫人の舞台より

死して残す至高の愛

文=黒田恭一◎音楽評論家

だったら、あんなことはしない。プッチーニのオペラをきいていると、いつも、そう思ってきた。どんなプッチーニのオペラを聴いても、そう思ってきた。いかに病気を治療するための金がないからといって、ミミと別れることはないだろう、と思って、ロドルフォのとった行動に腹が立った。まあ、確かに、ミミもミミで、表面的には明らかにされていない部分での、したたかなところがあるにしても、である。

 「トゥーランドット」のカラフも、リュウの健気な思いがわかっていながら、銅鑼を叩いてトゥーランドットに求婚するとは何ごとか!

 現実にも、才色兼備の、あれだけの女がなんであんな碌でもない男に血道をあげるんだと、首をひねることがままある。蓼食う虫も好き好きであれば、傍から四の五のいえることでないのはわかっていながらも、「蝶々夫人」のピンカートンはひどすぎると思っていた。蝶々さんと結婚しておいて、何年もほったらかしにしたあげく、新たに結婚した女を伴って訪ねてくるとは、唾棄すべき行いであり、彼は男の屑で、彼のしたことはほとんど犯罪だと思っていた。

 それでいて、プッチーニのオペラに登場する、ロドルフォやカヴァラドッシ、ピンカートンやカラフといったテノール・ロールたちは、困ったことに、それぞれのオペラで、ほとんど例外なく極上のアリアを歌う。無論、その極上のアリアが素敵に歌われて聴き手の心を打てば、それでその男の非情が許されるというわけでもない。
 しかし、聴き手の側から言わせてもらうと、その結果、彼を好きになった女の気持の片鱗ぐらいは、解ったように感じた。そこがオペラの厄介なところで、オペラの登場人物については、その人物がかりに人格的な欠陥があろうと、卑劣な行動をとろうと、音楽によって納得させられてしまいかねない。

 さらに、僕たち聴き手は、オペラの登場人物像を、その登場人物を取り巻く人たちのもたらす音楽から読み取るということも、普段、行っている。人物像を提示するというにはあまりにも小さな規模のアリアを歌うにとどまっているにもかかわらず、「ドン・ジョヴァンニ」というオペラに耳を澄ませていて、タイトル・ロールのドン・ジョヴァンニを鮮明にイメージ出来るのは、オペラにそういうことがあるからである。蝶々さんの歌う自害の場のアリア「かわいい坊や」をきけば、多少下手に歌われたって、胸を抉られ、言葉を失った。「ある晴れた日に」を聴けば、いつだって、あなたの愛しているピンカートンはあなたが思っているような男ではないんですよ、といってやりたくなった。

 ところが、最近になって、蝶々夫人には、ピンカートンが碌でもない男だということなど、百も承知だったのではないかと思えてきた。無論、そのことはトスカにもリュウにもあてはまることで、彼女たちにとって大切だったのは、彼女たちが愛した男の誠実さや、人格としての立派さなどではありえず、彼を愛してしまった、その自分の愛に生きることだった。

 そのように考えないことには、自害する蝶々さんや、サンタンジェロ城から身を投げるトスカを包む、あの崇高さが納得できない。蝶々さん、ピンカートンのような不実な男に純愛を捧げて、命を絶つなんて、いくらなんでもつまらなすぎるじゃないか、と言いたくもなったが、蝶々さんの愛した男が、ピンカートンのような軽薄で不実な男ではなく、「ドン・カルロ」のロドリーゴのような男であっても、蝶々さんは、確かに自害しないではいられないほどの不幸を味わわされることはなかったとしても、蝶々さんの愛し方でしか愛せなかった。

 そうと解ると、プッチーニのオペラをきくたびに、そのテノール・ロールに対して、俺だったら、あんなことはしない、などと息巻いてきたのは、ひどく青臭く思えてくる。

 プッチーニのオペラは、女性に較べて、どうしても直情径行の気味のある男たちに、愛の深さをさりげなく教授してくれていると、いかにも遅ればせにではあるが、最近になって、気付いた。

 

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