蝶々さんは日本以外の土地、ヨーロッパやアメリカを夢見て、今の場所から逃げ出したいと思っている子供なんだ、と私は感じています。ある女性が一つの価値観から逃れようとする物語は、何も日本人だけの問題ではなく、普遍的な物語だと思います。
――「蝶々夫人」は日本を舞台にした作品ですが、どんなところに日本的なものを感じますか?
そう感じるところはたくさんあるのですが、私にとって最も印象的なのは、第一幕で蝶々さんを囲んだ芸者たちが「Uhー蝶々さん」と歌う場面ですね。
その場面はとても美しく、私は京都を連想します。プッチーニも、“芸者”を感じたからこそこの場面を入れたのだと思います。芸者だけが「Uhー」と歌うところは、日本の独特なカラーを象徴していると思いますね。
――「蝶々さん」のキャラクターについてはどうですか。
この「蝶々夫人」自体は、物語は非常に西洋的であると思います。まだ幼い少女である蝶々さんは日本人でありたくない、外国とかかわりたい、ある意味で日本人であるための独特の教育に疲れている、そんな女性ではなかったのかと感じます。
蝶々さんは日本以外の土地、ヨーロッパやアメリカを夢見て、今の場所から逃げ出したいと思っている子供なんだ、と私は感じています。ある女性が一つの価値観から逃れようとする物語は、何も日本人だけの問題ではなく、普遍的な物語だと思います。
――相手役であるピンカートンはどうですか。
彼は、とんでもない野郎です(笑い)。例えば、彼はオペラの最初で「これはちょいと軽くする結婚だ」と言い、忠告するシャープレスに耳も貸さず、「アメリカ万歳」と乾杯することから、彼の不真面目さがよく分かります。彼は典型的なエゴイストな男性ですよ。慰み者に幼い少女を使うのは今日の世の中で12、3歳の少女に性犯罪をするのと同じようなことですね。
若気の至り、という言い逃れが出来るかもしれませんが、そういった人生を最後まで反省することなく過ごしています。ピンカートンはケイトがいるから反省しているのであって、決して蝶々さんを見つめることなく終わってしまう。彼が道を踏み外した人間であると位置付けられていることはそこに象徴されています。
――音楽の中にその特徴は表現されてますか?
いえ、されていません。歌詞の中にはありますが、音楽は反対で、ピンカートンの音楽は素晴らしいんです。甘い言葉で誘っているようです。旋律が美しくないと、人は騙せないということを示しているようですね(笑い)。
――作品に登場する他のヒロインに比べると、蝶々さんはどんな位置付けでしょう。
プッチーニの作品の全てのヒロインを見てみると、あどけなさを持ち、純粋であるのは蝶々さんと「トゥーランドット」のリュウだけだと思います。
「ラ・ボエーム」のミミ、「外套」のジョルジェッタ、「トスカ」のトスカ、「つばめ」のマグダ・ド・シヴリィは、蝶々さんやリュウのような純粋さは持っていません。蝶々さんは何かを純粋に信じきる一人の少女ですが、ミミは違います。もっと色々なことに慣れているんです。そう比較してみると、蝶々さんには他のヒロインたちに無い純粋さを持っているということです。
蝶々さんの持っている強さは、自分の信じた道を真っ直ぐ歩いていくところにあります。それがたとえ悲劇だとわかっていても、自分の信じた愛を最後まで信じるのです。そしてプッチーニは、根本的に「蝶々夫人」のストーリーを愛していたのだと私は考えます。
――蝶々さんは子供を残して死を選びます。
興味深い質問で、同時に答えるのが非常に難しい質問ですね(笑い)。ただ、私は、そのヒントはやはり子供の存在にあると思います。と言うのも、プッチーニのヒロインの中で、子供がいるのは、蝶々さんだけですから。やはり、その子供との関係を考えないわけにはいきません。
そう、私は、子供の将来を思うが故の死ではなかったか、と思います。自ら、子供の将来にとって邪魔になる自分という存在を消すんです。自分が身を引くことで、逆に子供のその後の人生が開けていくだろうという願いを込めて…。
――この作品を指揮する時に、最も気を付けていることは何ですか。
「蝶々夫人」に限らず、オペラを指揮する時に大切なのは、楽曲や物語を“生きた物”にするように作り上げることです。音楽的な部分で言うと、楽譜に徹底的に忠実であるということです。
例えば、「フォルテ」と書いてあったら、物理的に大きな音を出すということだけではなく、それを聴いている人がその表現に力を感じてくれるものにしなければならないし、「ピアノ」と書いてあったら、音を小さくするのはもちろん、今度は音楽と言葉のバランスというものに目を向けなくてはなりません。
つまり、楽譜の強弱記号は、音の強弱を表しているだけではなく、物語を展開させていくための意味をそれぞれ持っているわけです。
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